FUMONIN Hikaru's Artistic Days

Web投稿などで活動するアマチュア作家・小説家で、オケなどで活動するアマチュアのチェリストです。

ローゼンクランツ「翁」の由来とクラシック音楽のお話

 小説家になろうへ投稿した「双剣のルード ~剣聖と大賢者の孫は俊傑な優男だが世間知らずのいなかもの~」が完結してから、もう2ヵ月がたとうかとしております。

  Webへの投稿は、1月末の完結前に、とっくに終わっていました。それから、次回作の構想を考え始め、かなりの時間が経過していますが、順調に進捗しでおりません。6月締め切りの公募に出してみようという算段ですが、間に合うのかな?

 それはともかく、ブログの投稿が滞っているので、「双剣のルード」にまつわる裏話を一つ。

 主人公ルードヴィヒの祖父が、ローゼンクランツ「翁」と呼ばれ、尊敬されているということを、小説中で書きました。ちなみに、ルードヴィヒは、もちろんベートーヴェンファーストネームで、ベートーヴェンつながりです。

 これは、作曲家のドビュッシーが、音楽論集の中で、ベートーヴェンのことを、「翁」という敬称(?)をつけて呼んでいたことにちなんでいます。読んだのはだいぶ前のことですが、印象に残っていたので、使わせてもらいました。

www.iwanami.co.jp

 私が読んだのは、もちろん日本語訳です。このブログを書く際に、原語のフランス語の表現はどうなのかと思い立ち、辞書を当たってみましたが、結果は不明。もしかしたら、単に「お爺さん」という意味だったのかも? でも、文脈的にそうは思えなかったんだよなあ……。

 でも、普通に考えて、「ベートーヴェンの爺(じじい)がさあ……」みたいな発言をしたら、かなり侮蔑的な表現ですよね。おそらくは、直訳すると「大先輩」といった言葉ではないか、と推測するのですが。

 この話は置いておくとして、問題の音楽論集を、この機会に流し読みしてみました。

 が、待てよ。肝心の「翁」の文字は発見できず……もしや、私の妄想? まあいいや、小説はあくまでも創作の世界。学術論文ではないのだから、出典など、どうでもいいのです。

 それよりなにより、読み返した論文集のなんとすてきなことよ。

 岩波書店が出版している音楽論集ですから、お堅い学術論文を想像してしまうところですが、そこはドビュッシー先生のこと。論文形式ではなく、ちょっとした連作短編小説の体裁になっています。私自身、小説を書き始めた好事家(ディレッタント)ですが、文章のセンスのよさに打ちのめされました。

 確かに、創作の才能がある作曲家諸氏で、すてきな文章を書く方は多いですよ。ですが、これは反則だと言いたくなりもします。個人に二物を与える天は、なんと不公平なのか。

 それはさておき、副題の「反好事家八分音符氏」(ムッシュ・クロッシュ・アンティディレッタント)が示すとおり、主人公は八文音符氏(ムッシュ・クロッシュ)。まずは、メジャーな四分音符ではなく、八分音符ということからして、ひねくれています。

 「反好事家(アンティディレッタント)」という言葉も、一見するとわけがわからない。

 ディレッタントは、好事家と訳されますが、日本人には理解しにくい言葉です。これは、作曲家をけなす言葉として使われました。趣味でやっている好事家に留まる半人前といったニュアンスです。

 では、この「アンティ」なのだから、「アンティディレッタント」とは専門家(エクスパート)のことなのか? ならば、なぜ素直にエクスパートと表現しないのか?

 その理由は、八分音符氏によって示唆されます。

「私は、批評よりも、誠実にいだかれた飾り気のない正直な印象のほうに、興味をもってます」(岩波文庫 ドビュッシー音楽論集P14より)

 そして、プロになるための教育を受けた専門家(エクスパート)は、それがために視野が狭いと切って捨てるのです。

 「アンティディレッタント」とは、いわば好事家でも専門家でもない、第三のカテゴリーを指していたわけです。

 ドビュッシー先生の作曲に関するポリシーも同じでした。従来の作曲技法にこだわらず、自身の感性にしたがい作曲する。これぞ、ドビュッシー先生の真骨頂です。

 ドビュッシー先生が生きた19世紀末から20世紀初頭は、とにかく狂気をはらむような古い秩序の破壊に、誰もが夢中になった時代です。性の解放が進み、ホモじゃなければ芸術家じゃないといった風潮もあったほど。

 クラシック音楽の世界では、ワーグナーが一世を風靡し、若い作曲家たちは、こぞって彼の作品からヒントを得ようとしていました。

 が、ワーグナーは、長い間、好事家(ディレッタント)として、見下されていた時代がありました。彼は、音楽家の家系に生まれ専門教育を受けたわけではなく、若い頃は革命運動に参加して、国外逃亡した、異例な経歴を持つ人物です。

 だからこそなのでしょうが、彼は、伝統にこだわらない、革新的な音楽を創り出しました。

 最も象徴的なものが、楽劇「トリスタンとイゾルデ」の冒頭で示された「トリスタン和声」と呼ばれる、増四度の不協和音程を含む和声です。調性が曖昧なまま、いきなり提示されるトリスタン和声は、伝統的な調性技法を破壊するものとして、作曲界に衝撃的なインパクトを与えました。

 全音を三つ重ねた増四度の音程(ハ長調だとファとシ)は、響がよいとされる長調の音階に含まれますが、古い和声法や対位法では、「悪魔の音程」と呼ばれる禁じ手でした。しかし、芸術は常に革新的です。主和音(ハ長調のドミソ)へ解決する前段階の属和音(ソシレ)にファの音を加えた属七(ソシレファ)の和音(和声コードでいうセブンス)が許されるようになります。この段階で、増四度の音程は一部解禁となったのですが、あくまでも主和音への解決を前提としたものです。

 これを無視して、何の前置きもなく、悪魔の音程を使ったところに、ワーグナーの革新性があったわけです。そして、「アンティディレッタント」の言葉は、ワーグナーディレッタントと蔑んだ人たちへの痛烈な皮肉にも思えます。

 ドビュッシー先生自身の出世作で有名な「牧神の午後への前奏曲」は、増四度音程の間を、連続する半音階でたゆたうフルートソロで始まります。不安定にたゆたう感覚は、まどろむ牧神のようすをみごとに表現しています。

 増四度音程もさりながら、連続する半音階も旧来の和声技法からすると禁じ手です。トリスタン和声に、自らのオリジナル要素を加え、昇華させた技法は、やはり大きなインパクトを作曲界に与えました。これは、ワーグナーのオマージュなのだと思われます。

 その後、ドビュッシー先生は、6つの全音からなる全音音階(例えば、ドレミファ#ソ#ラ#)の作曲技法を生み出しました。この音階では、すべての音が平等で主音が存在しないという意味で、無調といってもいいものです。不安定でありながらも、民族音楽などに見られる四七抜き音階(悪魔の音程のファとシを抜いた、ドレミソラの5音から成る音階)との類似性もあります。

 これにより、ドビュッシー先生は、キラキラとした神秘的な響きと民謡のような温かさ・素朴さが調和したファンタジーな世界を表現していくのです。

 かくいうドビュッシー先生も、プーランクなどフランス7人組と呼ばれる後輩たちなどから見れば、越えるべき巨匠に映りました。

 私は、想像してしまうのです。

 彼らこそ、ドビュッシー先生のことを「ドビュッシー翁」と呼んだのでは、と。

 

(と、きれいに締めくくりつつ、実は、プーランクが書いた文章を読んだことがあります。私の記憶が確かならば、彼は、ドビュッシー先生のことを「御大」(おんたい)と呼んでいました。原語は不明。気になります。グーグル翻訳に入力すると「シェフ」と出てきますが、英語のボスみたいなニュアンスの言葉なので、おそらく違うと思います。直訳してズバリのフランス語は、見当たりません。「御大」と訳した翻訳者さんの、センスの良さには脱帽です)