お題「夏に聴きたくなる音楽といえば」 ~エステ荘の噴水~
Hatenaブログのお題からひとつ。「夏にに聴きたくなる音楽といえば」です。
私は、チェリストなので、チェロのお話が多いですが、チェロやオーケストラの曲以外にも、ピアノの曲も好きです。
一番気に入っているのは、ドビュッシー御大なのですが、ラベルもいいし、ショパンも好き。ブラームスの後期のピアノ作品もいい。もちろん、ヴェートーヴェン翁のピアノ曲は、外せません。
微妙なのがリスト。ピアノ協奏曲などは、いただけないなと思うのですが、素敵な曲もあります。若い頃はスターとしてもてはやされ、ショパンと人気を二分した彼は、年を経て、生活スタイルも、曲調も変わります。晩年のリストは修行僧のようなストイックさを持っている。
そんな彼に「巡礼の年」というシリーズもののピアノ曲集があり、その最後、晩年の作品で第4集「第3年」の第4曲「エステ荘の噴水」という曲があります。
「エステ荘」は、イタリアのティヴォリにあるエステ家による別邸で、オルガンの噴水という巨大な噴水をはじめ、数百の噴水があることで有名。「エステ荘の噴水」は、その噴き出す水が光に反射してキラキラとした様子を見事に描いています。聴いていると、その映像が頭に浮かびあがり、涼やかな感じは暑苦しい夏に清涼感をもたらしてくれます。
この曲は、リストの代表作でもあり、ドビュッシーやラベルなど、後輩の作曲家たちにも影響を与えています。
ドビュッシーの 「映像 第1集:水の反映」やラベルの「水の戯れ」は、同じ水を題材とした曲として、リストの影響を受けていると言われる定番の作品です。
ドビュッシーやラベルは印象派と呼ばれますが、その先輩であるリストは、「エステ荘の噴水」で、そのスタイルを先取りしていたわけです。
「印象派」という言葉は、絵画の印象派からの転用です。絵画の印象派では、光がとても重要な要素です。中でも、水がキラキラと乱反射したり、透明な水を通して水底が見えたり、半透明な水面に風景が映り込んだりといった、神秘的・幻想的な光の作用は主要なモチーフの一つです。
定まらない、波に映る乱反射のように、型にはまらず、自由にたゆたう。しかし、完全な無秩序というほどアナーキーではない。そんな絶妙な自由さ。そんな感覚が私は大好きです。そういう共通点からドビュッシーらは印象派と呼ばれたのだと思いますし、言い得て妙です。
作曲技法としては、ドビュッシーの全音音階が、一種の無調だと前にブログで書きました。一方で、シェーンベルクに始まる新ウィーン学派は、12音技法という、完全な無調音楽の手法を確立したました。「無調」というと、調性という頸木から解き放たれた、完全フリーのように思いがちです。しかし、厳格な12音技法は、まさに
自由落下とは、不自由なものだな(by シャア・アズナブル)
というようなもので、いかなる調性からも中立でなければならない、という不自由があるのです。
人間は、大地に立って生きる存在。12音技法は、無重力状態のような不思議な雰囲気を醸し出しますが、人は、無重力状態の中では宇宙酔いをしてしまう。同様に、12音技法による音楽を長時間集中して聴くことは、無理だったのです。それに、いち早く気づいたシェーンベルクらは、12音技法と語りや合唱のテキストと結びつけるなどの工夫をし始めます。
ドビュッシー御大は、そんな様子を横目で見ながら、苦笑していたのでは、と想像してしまうのは、私だけでしょうか?
結局、音楽にも、ドラマがないと聴衆はついてこない。主調があって、これが属調などを経て不協和が生まれ、最後に主調へ戻って解結するのが音楽の基本形。型にはまったものばかりではつまらないので、いかにひねりを加えるかが作曲家の腕の見せ所でだと思うのですが……。
スタイルの崩し方に、絶対的な正解はなく、個人の趣味・センスがあるだけです。それは、創る方も、聴く方も同じです。ですが、20世紀は、古い価値の破壊が正義とされた時代。作曲業界では、12音技法が絶賛されミユージック・セリエルという技法に昇華されていきます。この中で、新ウィーン学派のウェーベルンは、その元祖として、神のように尊敬されていました。
しかし、それも20世紀の後半から様変わりし、今世紀では、旧来の作曲技法を使った作曲家たちが復権してきています。が、それらの話は、機会を改めるということで。